日記

いま、手紙を書きたい理由

その他

誰かと連絡をとる手段は、年々多様化している。

 

手紙・電話・SMS(ショートメッセージ)・メール・LINE・FacebookのMessenger・InstagramのDM(ダイレクトメッセージ)……

今のところ、私の使っている連絡手段はこのような感じだ。

 

メールアドレスや電話番号は知らず、FacebookやInstagram上で繋がっている人も少なくない。

指先だけで連絡を取り合えるのは、やはり便利ではあるが、なんだか味気ないとも感じている。

 

そんな私は、ハガキや手紙を書くのも、とても好きだ。

住所を知っているのは、親族か、目上の人に限られつつあるが。

ノスタルジーにひたりたい訳ではないと思う。

 

「手紙ならでは」の部分に、どうしようもなく惹かれるのかもしれない。

たとえば、1階の郵便受けから、自分の部屋(ちなみに私は3階)までの間のワクワク感。

「相手がどんな絵葉書や一筆箋を選んだか」「どんな切手か」も情報の一つとして手元から伝わってくる。

前は黒だったけど、今回は青のペンだなぁ、という気づきもある。

差出人がどれだけ自分に心を傾けてくれたかが、見えない温度のような形で、自然と表れる。

 

また、私は相手の宛名や住所を書くのも好きなのだと気付いた。

住所を書くたびに、その土地に行った時の思い出もよみがえることがある。

相手の名前を間違えないように、一字一字じっくり書く。

たとえば名字が「菊池」ではなく「菊地」だ、という細かいことにも敏感になる。

 

 

唐突だが、最近とある本屋さんから「情報外情報」という言葉を聞いた。

一見矛盾した言葉だが、たとえば本は書いてある内容だけでなく、装丁や手に持った感触などからも読み手は何らかの情報を得ている……と。

 

また、最近手紙をくださったSさんは、ご自分が前に書いた「赤い花」という文章を同封してくれた。

(前半略)「絵はそれを描いた人間の感情が付け加わる / それを描きたいと思った思いが伝わる /

そして、それを描けるようになった / ひとりの人間の人生がその赤い花に張り付いている /

同じ「赤い花」でありながら情報量がまるで違う / 感動は情報量の多さに比例する /

情報量が少なければ感動は生まれない」

 

手紙やハガキは、書き上げたあとも、切手を貼り、ポストに投函する等、他の通信手段と比べて手数がかかる。
その手数の過程で、きっと少しずつ少しずつ“情報”が乗っかっていくのだろう。

だからこそ、その分気持ちも伝わりやすいと感じている。

 

50代の知り合いから本を送ってもらった時、そこに同封されていた便箋を読んでハッとしたことがある。

特に根拠はないのだが「ああ、この人は今までとてつもない量の手紙を書いてきたのだろうな」と感じた。

その後、その方と懇意にするなかで、奥様と結婚前に長いこと文通をしていたと知った(遠距離だったそう)。

また、今も遠くに住む友人・知人には手紙をよく書いているという。

「ハッ」とした私が、どのような情報を受け取ったのか言語化できていないが、言葉にしなくとも伝わるものが手紙にはあるのだろうと感じている。

 

 

メールやSNS上でのやり取りは、データとして保存されるし、後から検索して読み返すこともできる。

一方、手紙やハガキは、現物がなくなってしまったら、もう内容が分からない。

なんだかデジタル社会の“死角”に入り込むような気分になって、少しゾクゾクすることもある。

そんな些細な感覚も大事にしてゆきたいと思う。

情報があふれていると言われる現代で、大事な情報をきちんと受け止める感度を失わずにいたい。

2022/02/16

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速渡 普土さんの投稿