それでも会うか、会わないか COVID-19のなかで

2020/07/31

3

災害・病

COVID-19

ごく私的な事柄で恐縮ですが、「暮らし/自分が大切に思うひとと現在をどのように共有したいか」という点において、COVID-19によるどのような影響があるかという視点で綴らせていただきます。


就職してから、大学の後輩の子と文通がはじまりました(北海道と本州で距離が離れていることもあり)。

たまに電話・メールもしますが、相手のSさんもLINEよりも手紙の方が良いようで、一年とちょっとそんなやり取りが続いています。

COVID-19の前には、私が本州へ帰ったタイミングで会ってゆっくり話し、会えない期間は手紙で近況を知らせあっていました。

今年の夏も、世の中が落ち着けば屋外ででも会えたらいいねという話をしていましたが、依然として沈静化しない状況を踏まえ、実家ぐらしのSさんから、親も神経質になってもいるから今回は会えそうになくてごめんなさい、ということになって今回の件は流れました(無理に会いに行こうとしてしまった自分のことも反省しています)。


「コロナだろうがなんだろうが、ぼくとだったら(屋外なら)会ってくれないかなぁ?」というリトマス試験紙を突きつけるような意図はもちろんなかったですが、そういった気持ちが全くなかったとは正直言い切れないのも情けないです。大事なひとをリスクある状況下に置きたくはない、という気持ちで納得はしているのですが。

やりきれなさと寂しさと、でもSさんの事情ももちろんくみ取って、次の手紙に向き合おうと思っています。

 

 *  *

以前にだいぶ年上の知人から、牧原憲夫編『増補 山代巴獄中手記書簡集』(而立書房、2013年)をいただいて読みました。治安維持法違反で検挙された山代巴・吉宗夫妻が、それぞれ異なる刑務所から互いに向けて書いた書簡も収録されています。

時代背景も事情も違うのだから、私とSさんの文通を山代巴氏・吉宗氏による書簡に安易になぞらえる訳ではありません。ただ、物理的な距離や、社会情勢によって直接会うことが叶わない、という点においては、共通するところがあると言えるかもしれません。

檻の中で、この文章をどんな気持ちで書いていたのだろう(書きたくても書けなかったことはなんだろう)ということを私なりに必死に推し量ろうと努めています。

 

 *  *

「ひとつの中心点しかもたない「真円」ではなく、ふたつの焦点のある「楕円」」
――ミシマ社の雑誌『ちゃぶ台 Vol.4』(2018年)で、平川克美著『21世紀の楕円幻想論』が紹介され、私はその「二つの焦点をもつ楕円」の性質に惹かれました。

COVID-19を受けて、暮らしの中で揺れる人間の本性のようなものも顕在化してきているように思いますが、個人の感情や行動などは一つの焦点を持った真円ではなく、「楕円」の考え方で見ることではじめて見えてくることもある気がしています。

 

今回のCOVID-19のなかで、私達は「見えない檻」と向き合わざるを得ないのではないか、と思います。

物質的な檻も人間が作り出したものだし、その根拠となる法律も人間がつくったもの。

たとえば、「意識」と「無意識」 / 「悪意」と「善意」 / 「個人」と「世間」

今回の檻も、こういった対に見えるような二つの物事が、それぞれ2つの焦点となって、世の中のひとを楕円で囲んでいるとも言えるのではないでしょうか。

 

様々な情報が錯綜するなかでは、自分なりの感度で物事を濾過してゆく作業が必要な気がしています。

濾し布にどっぷりたまったをすり抜けて、濾したあとには何が残るのでしょう。

「現代の檻をどうしたら越えてゆけるか?」
日々の暮らしが「濾す」作業であると言えるなら、なにがそのフィルターになり得るのか、模索してゆきたいです。