地域 福岡県糸島市

長岡秀世 著 「凛の旅人」 読了

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その他

令和(2019〜)

西田幾多郎 森信三 宮本常一 長岡秀世

西田幾多郎(1870-1945)、森信三(1896-1992)、宮本常一(1907-1981)の出生地を訪ね、著者独特の視点で考察した本。これまでに三者それぞれの生い立ち、生き様、思想、仕事などを調べ上げた「縦軸」の本はたくさんある。しかし、師弟関係として微妙に繋がりつつも異なる生き方をしたこの三人を「横軸」に並べ、そこに「苦悩と悲哀」を読み解く人はどれほどいるだろうか。それにしてもなぜ、この三人なのか。なぜ苦悩と悲哀を入り口としたのか。もしかしたら作者の筆舌に尽くし難い苦悩と悲哀も重ねられているのではないかと勝手に想像する。そう考えなければ成し得ない仕事ではないか。

 

森信三は「逆境は天が与えた恩寵的試練である」という言葉を残したというが、彼の生い立ちはあまりにも不遇に満ちている。きっと答えの見つからない問いを何度も自分に投げかけた末に導き出された境地なのだろう。

 

宮本常一は「十六万キロ、地球四周分を旅した空前絶後の旅人」とよく言われるが、この本を読むと、果たして宮本が日本各地を訪ねたのは単なる「旅」だったのだろうかと問いが浮かんでくる。どこか旅という言葉では括ることのできない「奥行き」を感じ、胸が落ち着かない。宮本の旅にまつわるエピソードが私の心を捉えて離れない。

 

終戦の年の十月からは戦災した帰農者三百人を引率、北海道北端の幌延役場で引継ぎをした後、風雪の中、単身網走・釧路などの入植地で、先に入植した人々を激励している。青函連絡船の待合室で入植の苦労話を偶然耳にした宮本は、水だけで帰京することを決意し、函館から東京上野まで水だけで六日間を過ごした。三田の渋沢邸で出された白米の椀に落涙したといわれる。

 

昭和四年の年末、徳島に暮らす恩師、松本繁一郎を訪ねた旅も気になる。なぜだろうか。

 

元旦の夜、松本繁一郎は丹後の父親が病気のため出立する。翌日宮本は、列車で吉野川を遡上し香川県に入り、琴平の金比羅さんに詣でる。その本殿参拝の時から冬雨が強く降り出す。しかし、宮本はこの冬雨を冒して歩き、びしょ濡れとなる。高松に着くが、また雨の高松を彷徨い、映画館に入り映画を観る。その翌日から体調不調となり、悪化の一途を辿る。(中略)一月八日夜には四十度の高熱を発し重体になる。

 

後に宮本はこの病から回復するが、終生の持病となり、それが原因で亡くなったという。松本繁一郎と宮本常一の詳しい師弟関係については、本をお読みいただきたいが、宮本のあまり一般的に知られていない旅に関連づけられそうな松本繁一郎の人柄が伺える出来事を本著から紹介したい。

 

松本繁一郎は徳島地裁判事から大阪地裁判事に転勤後、終戦直前に食糧不足の中、栄養失調がもとで他界する。闇で食料を手にすることをよしとせず、法の番人の立場を貫いた結果であった。

 

宮本が松本宅を離れた理由には様々なことがありそうだが、気になるのは、「なぜ宮本がその身を冬雨にさらし続けたのか」ということだ。そこには、「自分に何かを課している」姿勢が感じられてならない。なぜ函館から東京への帰路に六日間も水だけで過ごしたのか。なぜそこまで自分を戒め、追い込んでいくのか。

 

その姿は「修行僧」を彷彿とさせる。たとえ偶然であっても逃れることのできない(あるいは、逃れてはならない)局面に自分が立たされた時に、覚悟を固め、あえて自分の身に何かを課す態度に出る。共感という感情の共振だけでは飽き足らず、その身を持って何かを受け止めなければいたたまれないといった強烈な自戒の念を感じる。宮本の没後、宮本をして「現代の聖」との追悼文を結んだという米山俊直京大教授の言葉を読むに至り、私の胸は落ち着いた。宮本常一の旅はまるで「聖の行脚」のように私には思える。

 

西田幾多郎の文章も心に残る。

 

私の論理と云うのは学会からは理解せられない。否未だ一顧も与えられないと云って良いのである。

 

これを日記に綴ったのは亡くなる1週間前だったという。「私の論理について」と題する文章中に書かれている。それが西田の絶筆だという。京都学派の最重要人物であり、今も「大黒柱」のような存在の西田がなぜ、すでに京都大学を退職して久しい最晩年になってこのような気持ちを抱くようになったのか。彼の生い立ちを知れば学会に対する反骨精神とも、劣等感とも取れなくはないが、そうした段階はすでに彼の人生の修行ですっかり解消されているはずだ。主著の「善の研究」の草稿を三十代に書いた人である。人間であれば誰もが抱く喜怒哀楽を超えた境地、あらゆる対立や矛盾を超えた地平線に立とうとした人の最晩年の文章からは、ともすれば人をがんじがらめに束縛する私的な感情というものが感じられない。むしろどこか学会の有り様を突いた冷徹な眼差しが際立つ。一体、なぜ学会には西田の論理が理解せられないのかは、門外漢の私には窺い知れない。学会からは理解せられないということは、どこか別の場所では理解されうるということの裏返しなのだろうか。いったい西田はどこに立ち、どこにいるのか。

 

西田幾多郎、森信三、宮本常一に共通しているのは言わば、「風土の訓え」を身につけていることだと思う。風土の訓えは学問の教えよりも前に、この時代に生きた誰もが身につけていたものなのだろう。それによってたとえ彼らが不遇に落ち、「苦悩や悲哀」に襲われても、森信三がいう「恩寵的試練」として乗り越えていくことができたのではないか。そして西田哲学は「風土の訓え」を土台にしているのではないか。そこが西田幾多郎の居場所なのだろう。その一方で、今を生きる私たちは風土の訓えを失いつつある。あるいは、すでに失ってしまったのかもしれない。そう考えると西田哲学を今読み解くのはその書き口よりも難解なはずである。そもそも西田の立っている場所を私たちは手放してしまったのだから。

 

宮本常一著「家郷の訓」には、父の善十郎が十五歳の常一の出郷に際し十条の「訓戒」を託したエピソードが書かれている。様々な仕事に従事し、世情に詳しい父の「世間師」の知恵として紹介されているが、著者の長岡秀世は、善十郎が菅原道真の歌を誦じていたエピソードを取り上げながら、故郷の周防大島西方村で私塾・寺子屋を開いていた岡本九郎の元で訓えを受けていた可能性を指摘し、お百姓の学びの奥深さを明らかにしている。当時善十郎は十歳ごろだったという。岡本九郎は岩国藩の藩校などで勤めていた著名な陽明学者、東沢瀉(ひがしたくしゃ/1832-1891)の私塾で学んでいたという。

 

宮本常一が覚悟を持って民俗学に挑んでいったのは、風土の訓えと学問の教えの矛盾を解消するためだったのだろうか。「家郷の訓」に次のように書いてあることを本著でも紹介している。

 

郷党の希求するところや躾の状況が本当にわからないと、学校教育と家郷の躾の間にともすれば喰違いが生じ、それが教育効果を著しく削いでいることを知ったのである。民俗学という学問を、趣味としてではなく痛切な必要感から学びはじめた動機はこの苦悩の解決にあった…。

 

きっと西田幾多郎も風土の訓えと学問の教えの食い違いを痛切に感じていたことだろう。宮本常一以降、そうした食い違いや対立を超えて橋を掛けようとする人が出てきているだろうか。学問のための学問という袋小路に迷い込んではいないか。果たして学問の教えは風土の訓えを認めることはできないのか。もしそうであるならば、西田が「学会には理解せられない」といった意味がわかるような気もする。

 

私は民族文化映像研究所ということに、わずかな期間ではあったが籍を置いていたことがある。私の記憶に間違いがなければ、研究所の命名には宮本常一が関わっている。宮本は民俗ではなく民族という文字を当てることを勧めたという。ある日私は所長の姫田忠義に尋ねたことがある。なぜ宮本先生は、あんなにもたくさんの古老たちのお話を聞くことができたのだろうかと。それに対し姫田は、「宮本先生は土地に入り、人に会うと、ニカっと、とてもいい笑顔を浮かべるんだよ」というようなことを話していた。今、思うに、その笑顔は風土からの訓えだったのではないか。

 

本著では、西田幾多郎、森信三についても彼らが生まれ育った故郷で風土の訓えを説く生涯の恩師とも言える人々との出会いを数多く紹介している。私たちは、そうしたかけがえのない人々を輩出し、寄りどころともなってきた各地の風土そのもの(山、川、海、大地、風、森など)をもう一度取り戻すことはできないのだろうか。

 

※本著作に敬意を表し、著者長岡秀世氏ゆかりの地、福岡県糸島市に紐づけて投稿する。

写真

長岡秀世著「凛の旅人」三岳出版社
カバー裏表紙に掲載した写真のトンネルは、豪雨災害で甚大な被害を受けた被災地復興を祈念、その先の希望・光明も示しています。(著者)
2023/02/12 (最終更新:2023/02/28)

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